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WithYou 〜みつめていたい〜


 

第1章「動き始める未来」

 俺は負けた…地方大会の予選なんかで負けてしまったんだ。

 うなだれている俺の後ろから、菜織がそっとスポーツタオルをかけてくれた。

「あなた、だから練習しなさいってあれほど言ったじゃない」

「ごめん」

 それしか言うべき言葉が見つからない。

 菜織は、毎日のように部活に誘ってくれた。だが、俺は彼女の助言を無視して、この一ヶ月遊んで過ごしてしまったのだ。俺たちは、この大会では本命の一人だった。この一ヶ月、本気で練習をしていれば、負けるはずのないメンバーだったんだ。

 菜織の性格なら、そんな怠け者の俺を許したりはしないだろう。だが、彼女には彼女なりの事情があって、怒鳴ったりしないように言葉を選んでいるようだった。

「放課後、もう少しきちんと練習しておけば、あなたの実力でこれぐらいの大会に勝てないなんて考えられないのよ。別に私は、あなたが負けたっていいんだけど…彼女が悲しむじゃない」

「菜織ちゃん…」

 二人の後ろから声がした。真奈美だ。

 俺と菜織が振り返ると、さっきまでスタンドから応援してくれていた真奈美が、乃絵美と一緒に降りてきていた。

「菜織ちゃん、私は大丈夫だよ。それより、乃絵美ちゃんのほうが…」

 ところがその乃絵美は、満面の笑みを浮かべている。

「お疲れさま、お兄ちゃん。試合は残念だったけど…私との約束、覚えてくれているよね?」

 菜織と真奈美は顔を見合わせた。兄思いの妹を良く知っている二人には、理解できない行動だった。

 だが、残念ながら、俺には思い当たる節があった。

 喉元まででかかった言葉を無理矢理押し込んだ。言いたいことは山ほどあるのだが、約束は約束だ。この期に及んで言い訳するのも見苦しい。それに…たとえシスコンだのなんだの後ろ指を指されようが…乃絵美の悲しむ顔は見たくない。

「乃絵美ちゃん、約束って?」

 菜織が怪訝な顔をして乃絵美に尋ねた。

「私、お兄ちゃんみたいに、みんなの前で一度は目立ってみたいの。でも、私って体弱いでしょ。だから、お兄ちゃんに手伝ってもらおうと思って…」

「乃絵美ちゃんでも、そういうこと考えるんだ…」

乃絵美の答えに、真奈美がすこし驚いたような感じで言う。

「それで、乃絵美ちゃんなにをするの?」

 そう問いかけた菜織に返ってきた言葉は、菜織の想像を超えるものだった。

「菜織ちゃん、コミケって知ってる?」

「こ、こみけっ!?」

「うん、それに参加しようと思って」

 菜織はあからさまに動揺し、あたかも自ら墓穴を掘った人間がそうするように後悔の表情を浮かべ、俺と真奈美の表情を伺い、天を仰ぎ、ひとつ大きな深呼吸をすると…乃絵美に食ってかかった。

「コミケって、もしかしてあの暑苦しいヲタクの集まりのあれ?」

 菜織は、普通の女の子なら誰もが嫌がるような事を、次から次へと乃絵美に話はじめた。

「いい?コミケっていう場所はね、まともな人間の行くようなところじゃないの。あそこに集まっているのは重度の精神病患者…ううん、重度の性的倒錯者ばっかりなのよ。東京の片隅に、日本全国から魑魅魍魎があつまるようなものなの!それにあの臭い!あのね、コミケ当日は関東甲信越一体を独特の濃密なオーラが覆うでしょう?あれは、全部コミケに集まったヲタクたちの体臭でできてるの。だからね、その日、有明にすむすべての動植物は枯れ果てて、紫色のしめった蒸気になって霧散しちゃうの!!」

「…おい、菜織。俺も参加することになるんだから、あんまり悪く言うなよ」

「だって、本当の事じゃない。紙袋をぶら下げて、風呂もろくに入っていない連中の集まり!」

 念のために補足すると、普通の人間だってコミケに行く。

 だが、そう指摘しても菜織は聞き入れなかった。俺のことは無視して、さらに強力な罵詈雑言を紡ぎ続ける。俺はそれを片っ端から否定しまくる。

 壮絶な悪態の応酬を止めたのは、真奈美の一言だった。

「まあまあ、お二人とも。でも、やるなら私も混ぜてほしいなあ。乃絵美ちゃん、ダメ?」

 意表をつく言葉に、全員が真奈美の方に振り向いた。

 俺は唖然として動きが止まり、菜織は恐怖におののくように口をぱくぱくとさせる。いち早くショック状態から復活した乃絵美が、いつもの笑顔で

「ううん、大歓迎だよ」

と答えた。乃絵美はうれしそうに菜織に向き直り、

「ねえ、菜織ちゃんも一緒にやろうよ」

「わ、わたし?私は、遠慮させて…」

 そのとき、どこからともなくファンファーレの音が鳴り響いた。

「な、なによぉ!」

「フッハハハハハハハッ…!」

 騒々しい高笑いとともに、どこからともなく一人の男が現れた。

「なにを言っているんだ、同志!老若男女ともに戦うファンタスティックコロシアム『ビッグサイト』に言ってみたいとは思わないのか?おお、嘆かわしい。今まで何を見て生きてきたのだ。ああ、神様このかわいそうな子羊ちゃんをお許しください」

 男は右手人差し指でサングラスを押し上げる典型的なキザ野郎だ。そのキザっぷりと比例するように、発言の内容にはかなり電波が入っている。こういう奴は無視するに限る。間違っても「痛い奴」なんていってしまえば、「何を言っている、同志!」とかなんとか、何時間もかけて自分の正当性を蕩々と語り始めるに違いない。

「なんなのよ、この痛い人は…」

 って、こら、菜織…。

「私が文通で知り合った人だよ、菜織ちゃん。大志さんって言うの」

 乃絵美の答えを聞き、菜織は今まで以上に悪寒が走った。久品仏大志…コミケ界では知らないやつはいないと言われる、超やり手アドバイザーだ。こいつにだけはあまり見られたくない、それが菜織の本心だった。

「あなた、乃絵美によけいなこと吹き込んだでしょ」

「何を言っているんだ、子羊ちゃん。私は乃絵美様のご依頼を受けてやってきたのだ。お兄さまをどうしても説得してほしいという心からのお願いに、私は胸が熱くなった。どうだ、お兄さん。乃絵美様と一緒に同人誌を作り上げようじゃないか!」

 大志はここぞとばかりに、妹思い(そこ、シスコンとか言わないように)の弱点をどんどんついて、俺を落としに来た。

「なに言っているのよ、この人は、これから次の大会のために練習づけの毎日が待ってるのよ!」

 菜織が必死に抵抗を試みる。だが悲しいかな多勢に無勢、それも大志が入っている状況では分が悪すぎた。大志が一言発すたびに、俺は胸の奥がどんどんと熱くなっていくのを抑えられなくなっていった。コミケっとで壁に並ぶ人気作家になり微笑む乃絵美…。

「…そうだな。俺には実力がないのかもしれないな。乃絵美のためだし、一緒に同人誌を作るか」

 俺は、決意した。

「お兄ちゃん、本当?」

「ああ。男に二言はない」

「わあ、ありがとう」

「そうか、さすが私の見込んだ同志!」

「たのしくなりそうだね」

 乃絵美、大志、真奈美が喜びの声を上げる。ただ菜織だけはそうはいかなかった。

「あ、あなた達どこかいかれているわ。毎日毎日トレーニングにつきあってあげたのに…ぅ…」

 菜織は女の最終手段「泣き」に出た。これを見て落ちない男はそうはいまい…。

「菜織…俺は…俺は…」

「泣くな、菜織。俺もつらい」

 俺がその涙に転んでしまいそうになったとき、大志の声が耳に入った。

「だが同志!さっきの男と男の約束はどこにいったんだ。男ならコミケ、女もコミケ、人類総コミケ!これぞ、人間の目指す道だろう」

「そうよ、菜織ちゃん。一緒にやろうよ」

「放っておいてよ…」

 菜織は駐車場に向けて泣きながら走っていった。

「菜織ちゃん…」

乃絵美は少し申し訳なさそうに、つぶやいた。

「皆の者放っておけ、わかるときが来れば自ずとやってくる」

「…そうだね。きっと照れてるだけだよね。すぐもどって一緒にべた塗りしてくれるよね」

「うん、きっとそうだね」

「…」

 こいつら、なんて自己中心的なやつらなんだ…と思ったが、賢明な俺は反論を避けた。「じゃあ明日からは放課後ロムレットに集合ね」

「ようし、わかった」

 真奈美のかけ声に、メンバーでない大志も答える。

「乃絵美ちゃん、大志さんも入られるの?」

「違うよ。明日はノウハウを教えてくれるだけだよ」

「ふぅ、よかった」

 実は真奈美は大志が苦手だった、しかし乃絵美に聞いてメンバーでないことを知り安心した。

「甘いぞ、真奈美。俺ぐらいのレベルでびびっているようではビッグサイトの門、いいや、お台場にも足を踏み入れることはできん!」

「おぃおぃ。まあなんにしろ、明日は17時に集合だ」

「OK」

「うん」

 その後、大志はコミケや同人誌についてマシンガンのように語り始めた。さわやかな汗が光る陸上競技場で、ただその周囲だけが異様な雰囲気につつまれていたにちがいない。そんな大志の独壇場の合間も、俺は菜織のことが気にかかっていた。

 3時間ほども続いただろうか、やっと大志から解放された俺は、急いで菜織を探しに行った。だが、彼女はすでに帰宅していた。俺は、少しだけ罪悪感を覚えながら帰宅の途についた…。


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